SINCE 1930. Our History 想いは、時を越えて


  •      シルバーカー      当時は老人車といったらしいが、その商品化の思いは猛氏の頭の中にはずいぶん以前からあったようだ。 満を持してのシルバーカー製品化の取り組みである。

    高度成長期 高度成長期
    「昭和39年やったか40年やったか、生野区にあったメーカーの番頭さんが、ベビーカーにフタみたいなもんを付けて、ちょこっと腰掛けれるようなもんをサンプルで作らはって、それがえらい評判になりましてな。みんなビックリしてはりましたわ。今思たら、あれがシルバーカーの原点やったかも知れませんな。」
    「まあ、シルバーカーいうのは誰が発明したというものでもありませんねん。そんな名前もありませんしね。ショッピングカーも含めて、みんな乳母車の発展型ですわ。というのはね、当時、乳母車、ベビーカーは意外にも東北でえらい売れましてね。田舎でよう売れたんですわ。なんでやいうたらね、田舎では、息子夫婦が野良に出かけまっしゃろ。その間、孫を面倒見てるのがおばあちゃん。そんで、お昼になったら孫を乗せお弁当を積んで畑に行くわけでんな。そんな光景が田舎にはようさんあったんですわ。孫が大きなってベビーカーがいらんようになっても、採れた野菜を運んだり、板を敷いて腰掛けれるようにしたり…、歩くのにも楽やったんでしょうな、おばあちゃんが自分で工夫してクルマを押してはったんですよ。」

         どうやらシルバーカーは庶民の知恵や工夫によって自然発生的に生まれ、それをベビーカーを製造していたメーカーなどが老人車として製品化し広まっていったものらしい。ウィズワンもその先駆者である。

    昭和後期〜平成、そして現在

    昭和後期〜平成、そして現在 昭和後期〜平成、そして現在
    「父親の卯三郎が業界組合の初代の会長をやってましてな、そんな関係で若い時から組合に参加してましてね。業界のいろんな組合団体に関わって仕事をさせてもらいました。そういう意味では長い間業界に、特にシルバーカーの普及に微力ながら尽力したつもりです。お年寄りのためにね、もっと楽しく健康的にそして安全にと思てね。SGマークやPL法の対策ね、苦労はありましたけどやってよかったと思てます。もちろん本業も忘れてまへんで。シルバーカーもいろんなものを開発してきましたよ。技術的にもデザイン的にも。平成9年に社長を息子の潔(きよし)に任せましてね。まだまだシルバーカーを持つのが恥ずかしいと言った声も聞こえてきますんでね。新社長の感覚でファッション性も積極的に取り入れるようになりました。機能性はもちろんより持ちやすいように買いやすいように、おしゃれにも気を使った商品になってます。そういう意味で手前味噌ですけど息子もようやってると思いますな。ヒット商品も沢山出した。おかげでいろいろ表彰もしてもろたし、恥ずかしながらですけど平成24年かな、こんな私に勲章まで授かって。ほんまに名誉なことであり、うれしかった。父親と共に二代続けて叙勲されたことは光栄の至りですな。」
    「今後でっか…。今後はやっぱり男性がターゲットですねぇ。同じように歳を取るんやから必要な人がおるんやろうけど、いかんせん格好悪いいうて中々ハードルが高い。アイデアを振り絞って、そんな人たちの気持ちを変えていくくらいの商品を作っていってほしいですな。いや、現役は退きましたけど、まだまだ商品づくりのアイデアはどんどん出してまっせ。」

         最後に現社長への厳しくもあたたかいアドバイスでインタビューを締めくくった。
    会社の歴史の大半をともに歩まれた宮城猛相談役。その眼はまだまだ威光を放ち、象印ベビーの100周年を見ているようであった。

宮城 猛 ウィズワン株式会社 相談役
昭和8年2月8日 大阪生まれ

象印ベビー株式会社(現ウィズワン株式会社)社長を経て現在相談役に就く
全国児童乗物団体連合会理事・全国ベビー&シルバー用品連合会常任理事・全国ベビー&シルバーカー用品連合会副会長・大阪児童乗物協同組合副理事長・大阪ベビー&シルバー用品協同組合理事長・日本シルバー用品協議振興会理事長・独立行政法人 製品評価技術基盤機構委員・一般財団法人製品安全協会委員など数々の公職を歴任し現在に至る。
長年にわたるその功績が認められ平成24年(2012年)旭日双光章を授章。

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