SINCE 1930. Our History 想いは、時を越えて


  • 戦前から戦後

    「乳母車は順調に売れて、商売もそこそこうまくいってたみたいですわ。私が生まれたんもこの頃(昭和8年)ですねぇ。そやけどね、そうこうしてるうちに戦争ですわ。知ってのとおり鉄が貴重になってしもて仕入れられへん。作ろうにも材料がおまへん。かというて商売をやめるわけにいきまへんやろ。試行錯誤して木製の乳母車に切り替えたんですね。もちろん木と鉄では加工の仕方がまったく違うから、そのための工場も同業者と組んで新しく建設したんです。浪速区から東住吉区に移転ですわ。木材を熱して曲げてね、フレームをこしらえて車輪は木をくり抜いて作ってましてん。そらもう苦労してましたわ。コストも手間も全然ちゃうけど、そんなこと言うてられへんしね。」

         物づくりの様式まで変更し、なんとかここを乗り切ろうとされたのだが、思いのほか戦争の痛手は大きく、父卯三郎氏も出兵。昭和20年敗戦の混乱の影響で止む無く一時工場を閉鎖。この時、猛氏は12歳。岡山へと住まいを移して戦後を凌いだ。間もなく復興のために「産めや増やせや」が国策となる。団塊の世代の誕生、第一次ベビーブームである。

    戦前から戦後 「世の中赤ん坊で溢れとる。商売柄いてもたってもおられへん。田舎でくすぶってるわけにいきまへんやん。昭和の24年、父親も戦争から帰ってきたし、私も一緒になって父親と大阪に出てきて、またもとの鉄を使った乳母車・ベビーカー製造工場を再開しました。今里でしたなぁ。その頃、朝鮮動乱景気とベビーブームに乗ってね、よう売れたんですわ。で、なんとか商売もカタチになってきたんでね、昭和28年に「株式会社ミヤギ工業所」という社名を付けて法人にしたんですわ。」

         法人になると同時に猛氏は専務取締役に就任。その名のとおり、ここから猛氏の猛進撃が始まる。元来アイデアマンだった氏がベビーカーづくりに注いだ情熱は半端なものではない。持ち前の実行力も重なって、機能性・デザインなどにも注力し「業界初」「特許取得」を連発していく。現社長、宮城潔(きよし)氏も、この頃(昭和34年)に誕生する。

    高度成長期

    高度成長期 「昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪万博を控えて日本は好景気でした。暮らしぶりも団地なんかができてきて様相が変わってきました。高度成長真っ只中でしたけど、次のベビーブーム、いわゆる団塊ジュニアでんな。それを見込んでアルミフレーム性の軽くて丈夫なベビーカー作ったり、これは業界初でしたな。コンパクトに折りたためるベビーカーをこさえたり、いろいろ出しましたで。昭和41年には、ベビーカーの改良型でショッピングカーなるものを開発しましてな。それが今のうちのシルバーカーの土台となるもんですわ。」

         猛氏は、饒舌でありながら。自らの数々の功績については照れもあるんだろうか多くを語らない。アイデアマンであり技術屋でもある氏の謙虚なお人柄が滲み出てくるような語りであった。

    高度成長期 「昭和44年に父親から社長を継ぎましてな。第2次ベビーブームも見えてましたし、その頃ですな、大阪万博のあった年昭和45年の冬、工場を今の場所(東大阪市御厨)に新設して、プレス加工から、溶接、メッキ、縫製、組み立てまでの一貫工場にしたんですわ。で、年が明けてすぐ、社名を変更して前の“象印ベビー株式会社”となったわけですわ。当時ハンドルを前後に動かせるベビーカーを開発しましてね。新生児の時は対面しながら押す。ちょっと大きいなったら、正面向いて押す。これが大ヒットしましてね。あと、ベビーカーにちょっとしたおもちゃを付けて、それも売れました。まあ、えらい忙しさせてもらってました。そうこうしてるうちにベビーブームも陰りを見せ始めるしベビーカーの需要も減ってきますしな、このままではあかんなぁと考えた時にシルバーカーのことが頭に浮かんだんですわ。そこからです。シルバーカーを本格的に作ろうと思たんわ。」

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